「によっ記」の穂村さんの初エッセイ集だったらしい。
タイトルを聞いて旅行が苦手?方向音痴?と想像したが、この「世界」とは「雰囲気」かなあ。
自然さを保てないことに苦悩する穂村さん。
うまく言葉にはできないけれど、なんとなく言わんとしていることは伝わってくる。
自分に向けられた感情に対する適正な感情表現の度合い、そんなことを考えてしまうことが世界音痴なんだな。
「パンピー」の、奇妙で的外れな優しさに涙した話など他人事ではない気がしてくる私も音痴なんだろうな。
パンピーって飲み物は知らんが。
半分くらい最後に短歌が添えられている。
私は短歌や詩のように言葉が少ないものを解する力がないのだが、ひとつとても胸を撃たれるものがあった。
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
今さらながら関心が強くなるのでした。
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裁判を傍聴したこともなければ体験したこともない。
法律についても大学の授業で学んだ程度。法学部ではないし。
裁判や法律とは全く無縁の生活をしてきた。
それが数年後、裁判員制度の導入で裁判に参加する可能性が生じてきた。
私は裁判員になりたくない。
正当な判断ができるとは思えないから。
他のブログをご存知の方はわかると思いますが、私は相当偏った思考の持ち主。
一般的な考え方ができるのか不安だ。
もちろん普通に自分が生活する分にはかまわない。
しかし裁判員は人様の人生を左右するのだ。そんなこと恐くてできない。
この本のタイトルにもうすでに自分ではなく、裁判官がだめにしてるなら…と慰みを求めた(ウソ)。
冒頭にも書いたように法律にも詳しくなければ裁判もわからない。
そんな私でもコレは…と驚くことの連続。
司法試験合格者の中でも裁判官は更に優秀、といったイメージがあったけど。
たいへんな狭き門を通過するためのお勉強だけに必死で、普通の生活がわからなくなってるんじゃないの?と感じる。
不動産トラブルの話の中で「裁判官は退官後、大手銀行の顧問弁護士になるのが最高の花道」とある。
それじゃ、銀行側を訴えても勝訴できる見込みがないといってるのと同じこと。
著者が書いているように、裁判が始まる前に判決を決めているような例もあるのでは?と疑われてもしかたない。
一番困るのは医療裁判のように専門知識を必要とする場合。
その裁判について勉強はするだろうが、自分がそうであるように専門職の知識にかなうものはないと思っている感が否めない。
医療過誤裁判での病院側の主張を「専門家が言ってるから」って理由だけで、検証しているとは思えなかった。
裁判官がそうならもっと一般人の私たちはどうやってそれが真実なのか見極められるのだろう。
有名な事件の裁判についても書かれているので興味深いが、著者は被害者側からの視点である。
裁判官に取材も試みているが職務上の理由なのか、みなさんお答えなし。
なので一方的な感じがしないでもない。
両方の話が聞けないと本当のところはわからない、とも思う。
疑っているわけではないけど。
やっぱりね、こういう視点になると思うのですよ。
そうしたら裁判官と意見が対立するわけでしょ。
考え方が違うんだもの、どうやって歩み寄ればいいんだろうか。
もし本当に裁判官の心構えがこんなだったら意見の歩み寄りなんてできないと思う。
というわけで裁判員制度に対する気持ちは更に萎えるのでした。
5月11日追記
加害者が少年であった場合に登場する人権派弁護士というのも…
人を殺して反省もないのに守ってあげる必要があるのだろうか。
反省もしてないのに権利だけは主張するのはいかがなものか。
また裁判の過程でそれを吟味することなく、少年加害者の人権しか頭に置かない裁判官もどうだろうか。
この本の通りだとすると、裁判というのは時間と金の無駄だと感じる。
だって、裁判が始まる前に裁判官は犯罪のチェック項目に印をつけてその結果で罪状や量刑を決めている感じがするもの。
もう決まっていることを吟味するなんてしないでしょ。
1日おいてもやっぱり萎えた気持ちは変わらないや。
ユアグローさんは来日した時、携帯電話の画面に釘付けの若者の姿に驚いたらしい。
喋るものである電話の他の通信手段にいたく刺激されたとか。
そうして生まれた「新潮ケータイ文庫」で配信されたものをまとめた本。
たて書きです(笑)
これも、たち悪いじゃん。
あっちが子どもでも読める本ならこっちは大人向けかな。
ちなみに先に書かれたのはこっちの方。
携帯に配信されるのだから文字数の制限等もあっただろうが、そんなことを感じさせない奥深さ。
頭の中に不思議な世界が広がってくる。
自分もその場に居合わせ、この不可思議な出来事をふつうのことのように眺めているかのよう。
危ないですか?
それほど気に入ってしまったのですよ、バリー・ユアグローさんを。
お気に入りは「誕生日パーティー」かな。
別ブログで海外ドラマにつっこみを入れることを楽しんでいる身としては当然タイトルから興味を持ったわけであります(笑)
メディアリテラシーなんて言葉、ご存知でしょうか?
目や耳から入ってきていたのかもしれませんが意味の想像がつかなかったのでそのまま出て行ってしまっていたのかもしれません。
私だけですか。
メディアが伝える内容には意図的な偏りが含まれるので、その意図を見抜いて判断しましょう、ということらしい。
リテラシーって意味を知ってれば想像がつくものなのですね。
このわかりにくいメディアリテラシーという言葉を「つっこみ力」と命名したらどうか、と著者は提案しています。
批判や批評が嫌がられるのは一方的に言うだけで自分は無傷でいようとするから。
それでは角が立つので、つっこむことによって場を和ませるというか自分自身にもつっこませる余地を残しておくわけですね。
この言葉をあまりにも気に入ってしまいましたが、この本は言葉を定義することが目的ではありません。
この「つっこみ力」をふまえて物事を見ていきます。
以前読んだ「反社会学講座」でも提示されるデータの疑わしさが解説されていましたが、今回もそれが健在です。
常々思う、データをまとめる側が普通の生活の人ではないので普通の生活形態がわかってないんじゃないの?ということを改めて感じましたよ。
取り上げられてる自殺と失業の照らし合わせにしても、無職とはどうして無職なのかによって中味が違いますからね。
働き盛りが仕事を取り上げられたのか、定年まで全うしたのか。
意味の違うこの二つも同じ無職ではデータと呼べるのかどうか疑わしいです。
ぼんやりと思っていたことが言葉として整理できてスッキリした感じです。
何でも疑ってかかるというのは夢がないような気がしますが、鵜呑みにするのではなく自分なりに噛み砕いてみて納得できますか?出来なくてもいいんじゃないですか?そこを声に出してみましょうよ、ってことではないのでしょうか。
歌人として名前は知っていたが読むのは初めて。
ウソ日記という言葉に魅かれた。
日記のかたちのエッセイなのだけれど、どこかウソくさい。
そこが楽しい。
着眼点が素敵である。
初っ端の「おにぎり」でもうやられた。
できたてのおにぎりの不安定さ。まさに普段感じていたこと。
これだけでもう、読んでも後悔はしないと思える。
あと、武蔵丸の夢とか。
「鉄腕DASH!」に出る武蔵丸のファンなので必要以上に深い悲しみを感じてしまった。
短歌や詩というのは私の頭が固いせいか不得手なので穂村さんのものを読むこともなかったのが悔やまれる。






